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【TOP】【←prev】【FAMILY COMPUTER】【next→】 1999 ほれ,みたことか ! 世紀末 タイトル 1999 ほれ,みたことか ! 世紀末 機種 ファミリーコンピュータ 型番 CDS-CS ジャンル テーブルゲーム(ボードゲーム) 発売元 ココナッツジャパン 発売日 1992-9-18 価格 7300円(税別) 駿河屋で購入 ファミコン
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【検索用 かまほこかまほろかまことか 登録タグ 2022年 VoiSona か みずみずナマズ 曲 曲か 真島ゆろ 知声】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:真島ゆろ 作曲:真島ゆろ 編曲:真島ゆろ 絵:みずみずナマズ(Twitter) 唄:知声 (VoiSona) 曲紹介 あけおめまして かまぼこ 曲名:『かまぼこかまほろかまことか』 コンピレーションアルバム「おせちLP」収録曲。担当のおせち料理はかまぼこ。 歌詞 (YouTubeコメント欄の作者コメントより転載) 練り上げ築いてきた言葉が やっと板についてきたのに 空っぽの言葉とエトセトラ 哲学を騙ってる ”phenomenon”だ 輻輳する思想 「そうする」の偏向 総じて理想郷見てる表層 年始早々 情報は膨張 情緒焦燥 もう直ぐで往生 とうとう逃避行? 捨てた心根 十日の菊にも かけた人情 烏滸の沙汰 Saturday night 他愛ない問答 論争 これはカマボコかマホロかマコトか 曖昧な痛み吐き出したい ならこのまま墓場まで見てみたい 心象の深層で共依存 それはカマボコかマホロかマコトか 相対な怒りは今肥大 ならこのままさかさまでいてみたい 真像の芯をさらけ出して 噛み締めるほどの悔いもなく そのくせ崩れるわけでもなく 後付けの彩色に染まるのは 浅学菲才のラグナロク 適合する思考 好じて理想像 脅威で疲労 老化する本性 被る誹謗 興じて痴呆症 同志で競う 教室は衰亡 煌々と希望 光る近郊 もうどうしようもない 果ての尋訪 踊るだけの猛獣 盲従したいのかい 下位互換 これはカマボコかマホロかマコトか 大概な時代抜け出したい からこのまま果てるまでいたくない 身上の事情にも包囲網 それはカマボコかマホロかマコトか 最愛な一人は今いない ならこのままさかさまでいてみたい 信仰の真偽を晒して 怒り着飾っている シンパシーに酔っている 何も分かってないのに 分かったような口を聞く 偉大になってきて 次第に腐ってきた 誰にもわかるわけない 神の味噌汁飲み干し得る これはカマボコかマホロかマコトか 曖昧な痛み吐き出したい ならこのまま墓場まで見てみたい 心象の深層で共依存 それはカマボコかマホロかマコトか 相対な怒りは今肥大 ならこのままさかさまでいてみたい 真像の芯をさらけ出して コメント 可愛い曲で、大好き! -- 倉猫。 (2023-01-11 14 02 56) 可愛い曲調で、なかなか暗い歌詞? -- 六日 (2023-02-07 10 24 15) もっと伸びていいと思うんだけどなぁ... -- 名無し (2023-02-09 08 44 48) 意味がわかった気がする、スクールカーストだので上の指示を聞いて盲従してきた人の反抗(?)の曲なんだね。信仰の真偽を晒してとか韻踏むのめっちゃうまいのにちゃんとした意味にもなってるの本当にすごい。神曲。 -- 名無し (2023-05-04 21 31 14) 上辺だけの関係なんてうんざりだよね -- 名無し (2023-05-04 21 31 46) 何となく聞いてたが、 -- ユイ つlてんかく (2023-11-02 19 30 22) 改めて歌詞を見ると、色々と韻踏んでたりメッセージ性があったりするのかも。 -- ユイ つlてんかく (2023-11-02 19 32 02) 名前 コメント
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発言者:ラグナ・ニーズホッグ 英雄や限界突破(オーバードライブ)と同種の光狂いの性質が強く出た一面。 加えて、光の亡者が持ちえない、どれだけ自分が不利になろうが誰かのために命を懸けられる利他の精神がラグナの本質であることがよく分かるセリフ。 千年初の不死者殺しを成したものの、神祖に存在を気付かれ、国産みの神威に曝されるラグナ。 感知能力を一切備えていないにもかかわらず経験と勘だけで敵の位置を確信しながら目視不可能の超々遠距離射撃を実行され、窮地に立たされるも一瞬の隙を突いて地下空間から地上へ離脱することに成功する。 追撃には一手遅く、逃れるには十分。このまま補足される前に逃走を図ろうとした刹那。 視界に移ったのは、ラグナとは正反対に崩落に巻き込まれたリチャード(・・・・・・・・・・・・・・)の姿。 兄の姿を探して運悪く崩落に巻き込まれたのだ。そして、その位置はラグナと国生みの結晶砲の中間。つまりもう一撃が放たれたら、その結果は言うまでもない。 ――何をだよ。俺にはどうでもいいことだ。あいつが誰でも、何であっても 思い出すのは記憶に新しい、少し前の過去。偶然出会い、言葉を交わした抹殺対象の弟のこれからを顧みない塵屑(じぶん)の言葉。 そんな言葉を吐き捨てる糞野郎(じぶん)の目の前で、神殺し(じぶん)が手にかけた使徒の肉親が、仇(じぶん)を恨んで当然の相手が、死ぬから何だというのか? そんな自分が、あいつを、救う理由など―――。 「知ったことか!」 叫びと同時に右腕へ再度の神殺しを顕現させる。宙に浮いた瓦礫を蹴りつけ、死の射線に自ら飛び込んでいく。正気を疑う。だが、呆れも自重も今は要らない。 身体を突き動かす想いのまま、どうでもいいはずの他人(だれか)を救いに、命を懸ける。 地から天へと放たれる国生みの神威へと、天から地へ墜落する神殺しの神威が激突する。落ちていく命へ致死の脅威は届かず、対極の煌めきを放ちながら神威と神威は星屑と化すのだった。 (ラグナ)で笑った。ボッチと被ってますねぇ -- 名無しさん (2020-07-12 20 43 50) 後続がどれだけ素晴らしくても先駆者が優遇されてしまう理不尽 -- 名無しさん (2020-07-12 20 50 59) やはり光は素晴らしい -- 名無しさん (2020-07-12 21 08 14) 基本的には理屈っぽいのに、こういう時は理屈投げ捨てるらへん師匠っぽい -- 名無しさん (2020-07-12 21 13 47) このセリフ、首ちょんぱされる前にあったね。誰かの危機には建前全部放り投げて助けずにはいられないお人好しなんだな。 -- 名無しさん (2020-07-12 22 12 07) ここでリチャードを助けて無かったらどの√でも敗北してたんだろうなって思う -- 名無しさん (2023-02-28 21 06 03) 名前 コメント
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人間が生まれたときには、「できること」は極めて限られている。生物的な意味での新陳代謝機能は別として、何らかの意志表示は「泣く」ことでしか行うことはできない。四肢を動かすことはできるが、体の位置を変えたり、体を移動させたすることはできない。 見ること、聞くことはできていると考えられているが、少なくとも意味あるものとしての「認識」機能、「思考」機能は備わっていないと考えられる。もちろん、言葉を使うことはできない。 ポルトマンは『人間はどこまで動物か』(岩波新書)という本で、人間の特質を「生理的早産」と呼び、人間が直立歩行をするようになったために、4つ足歩行している場合よりも早く出産してしまい、胎内にいる期間が短縮され、そのために他の哺乳類の動物のような生まれた段階で基本的な歩行動作程度はできる状況を獲得しないまま生まれてきてしまったとしている。そして、逆にそのために脳への刺激が早期に始まることによって、人間の脳はずっと大きな可能性をもったというわけである。とりあえず何もできない状態で生まれてきた存在が、大人になっていく過程は、様々なことが「できる」ようになっていく過程でもある。とりあえず、こうした過程を「発達」と呼ぼう。 「できるようになる」という過程を考えればすぐに、それが「量的」なことと「質的」なこととを含むことがわかる。しかし発達を研究する学問である「教育学」と「発達心理学」とではこの時点で発達についての「意味」理解において相違があると言える。 国際的に有名な心理学の教科書である Bernstein, Roy, Srull, Wickens の "Psychology" は、「発達心理学の課題は、人間が年とともにどのように変化していくのかを究明することである」と書かれている。つまり、発達は常に「変化」として捉えられている。*9) 本講義は教職科目を兼ねているので、教員採用試験用の学習テキストも時々参考にしよう。東京アカデミー版の教育心理学の発達の項目では、以下のような説明がある。 固体の発生から死に至るまでの人のさまざまな変化を発達という。特に心理の変化、なかでも精神の機能や構造の変化に焦点が当てられる。(中略)発達と類似した概念として成長がある。成長は、身体的、生理的変化を中心とした量的増大を指す。発達は精神的な質的変化に関心の重点がある*10) ここでは精神的な領域で発達という概念を使用し、肉体的な領域では成長という概念を使用するとなっているが、「心理学」が精神に焦点をあてるからそのような言葉の使い分けをするのだろうが、教育は精神と肉体をともに扱うから、むしろ「成長発達」というように、成長と発達を分けないで使用する方が多い。この講義においても、発達と成長は基本的に同じ意味であるという使い方をする。むしろ、変化と成長・発達を同一視していいのかという問題の方が大きい。 変化すれば発達したのだろうか。 もちろん、変化が全くなければ発達もない。しかしどのような変化も「発達」という言葉では「教育学」では捉えないのが一般的であろう。 誕生直後の子どもは、まったく胴体を動かすことができないが、その内、少しずつ動かすことができるようになって、寝返りをうつことが可能になる。 だっこされても、首を固定した状態に保つことはできないが、ある時期から一定の状態に保持することができるようになる。(首がすわる。) 寝返りが可能になると、次に「はいはい」をして、体を自ら移動することができるようになるが、その範囲は次第に広がっていく。 やがて「立つ」ことができるようになれば、その次は「歩く」ことができるようになるだろう。その速度が次第に早くなれば、「歩く」から「走る」段階に発達していくわけである。 このように、量的変化と質的変化を伴って「できること」が広がっていく。 こうした身体能力に関わる発達は比較的理解しやすい。 精神的能力に関わる発達の考察は、より困難である。「精神的能力」とはどのような能力なのだろうか。詳しくは後の章で扱うので、ここでは簡単に触れておこう。滝沢武久は、身体以外に、自我、情意、知の発達段階に関する学説をあげている。*11) 例えば、スイスの心理学者ピアジェは、知的発達を次の様に定式化する。 0歳~2歳 感覚運動期 2歳~5、6歳 「前操作期」(ものごとを筋道たてて考えることができずに、外見や 目につきやすい属性に左右されてしまう) 7歳~11歳 「具体的操作期」(筋道をたてて推論することができるが、具体的な 手がかりがある場合に限られる) 11歳~15歳 「形式的操作期」(純粋に仮説的な命題に基づいて問題を考えること ができる) 80年代になって、ピアジェに対する批判が出されるようになった。もっと小さい子どもでも、興味がある事物に関しては、形式的操作が可能ではないか、子どもの認識は、文化的な背景をもっているのではないか、等々。 ここで、重要なことは、人間の認識は、最初の段階から次第に質的に高度になり、大筋において順序性をもって、発達していくことを認めているということである。精神の発達段階を定式化した人は、大体、時期を規定し、また順序を規定した。
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今日 - 合計 - 1999ほれ、見たことか!世紀末の攻略ページ 目次 基本情報 [部分編集] ストーリー [部分編集] 攻略情報 [部分編集] Tips [部分編集] プチ情報 [部分編集] 関連動画 [部分編集] 参考文献、参考サイト [部分編集] 感想・レビュー 基本情報 [部分編集] ストーリー [部分編集] 攻略情報 [部分編集] Tips [部分編集] プチ情報 [部分編集] 関連動画 [部分編集] 参考文献、参考サイト [部分編集] 感想・レビュー 名前 コメント 選択肢 投票 役に立った (0) 2012年10月09日 (火) 15時41分41秒 [部分編集] ページごとのメニューの編集はこちらの部分編集から行ってください [部分編集] 編集に関して
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『すばる』2008年2月号 人間をおとしめるとはどういうことか ――沖縄集団自決裁判に証言して 大江健三郎 (傍点は太字にした) 1 秋の終り、若い時には桜の花の美しさがわからなかったように紅葉にも目を惹かれなかった(つまり個別の花や葉に目をこらしても、集団をなすそれには鈍感だった)私が、この日頃紅葉にじっと見とれていると、老齢にからめて家内にからかわれる私が、新幹線の遠山の眺めに顔を上げる余裕もなく、裁判の陳述書、書証、その副本の類に熱中していた。 その私に、距離を置いた席から振り返ってくるのが気になった外国人女性が、名古屋を過ぎて時がたち、書類をしまい老眼鏡をいつもの丸眼鏡に戻した私の脇に立って、八年前、ベルリン自由大学で教わった学生だが、記憶にあるか、と尋ねかけた。 私はもう中年の知識人に見える相手に、生き生きした娘の面影を見出した。ドイツの小説の古い岩波文庫の翻訳を、自作の準備に整理していて、意味があいまいに感じられる箇所を、ドイツ語の原文に対照してもらい、ずいぶん助けられた人。 ――あなたに教えてもらったクライストの『ミヒャエル・コールハース……』を引用した長篇を、この冬に出します、あの際は長い時間ありがとう。 私はそれまで書類を載せていた隣りの座席に坐ってもらい、彼女が会社関係の弁護士として東京―ベルリンを往復している、という近況を聞き、自分の話もした。ベルリン自由大学の講義でも二週間をあてたが、一九四五年の沖縄戦のはじめ、慶良間列島で七百人に及ぶ非戦闘員の島民が、家族ぐるみ集団自殺をとげた。講義の後、日本軍の強制について論じている『沖縄ノート』(*1)を叩き台に質問が集中したが、自分は二年来、二つの島の旧守備隊長と遺族から名誉毀損で訴えられていて、これから大阪地裁で被告として最終の証言をしに行く。そういって私は、整理したばかりの裁判の論点を説明した。 ――ドイツで訴訟が行なわれているとしたら、ガス室で殺されたユダヤ人は自分の意志で死んだ、と言い出されたようなものね、といってから、法廷が初めての経験である私に、彼女は私らの共通語である英語で、あなたへの examination in chief はあなたの側の弁護人によるものだから、そちらはいいけれど、怒りやすいブロフェッサーには、cross-examination が厄介ね、と憂い顔をした。 それから(私はこの人がいかにも娘むすめしていた顔で、なにか特別な熟語を私が日本語で引用するたび、それはやまと言葉で、何といいますか? と質問し、それこそ厄介だったのを思い出した)、主尋問の方はいいとしてといって続けた方の英単語を、日本語で説明するつもりらしく彼女はこういったのだった。 ――根掘り葉掘り尋問、ということですから…… 三時間後、私は彼女がそのように訳した、つまり反対尋問を受けていたが、やまと言葉というにはためらいのある彼女の言い廻しを思い出すとおかしく、幾らかなりと平常心に戻れたものだ。 2 その朝の新幹線に乗るまでも、私が被告として尋問を受けるかたちで証言することについて、準備をしないできたのではなかった。私が、そして私の『沖縄ノート』をふくむ沖縄関係の三冊の著作の刊行について岩波書店が、渡嘉敷島の旧守備隊長の実弟赤松秀一氏、座間味島の旧守備隊長梅澤裕氏を原告とする、名誉毀損裁判の提訴を受けてから、私は自分に関わるものに限らず、年々更新されている沖縄戦資料を読むことを始めた。もとより『沖縄ノート』も検討した。この岩波新書は一九七〇年九月に刊行されているが、私はこの本にまとめた文章を六九年六月から七〇年四月にかけて雑誌『世界』に連載するかたちで書いた。 ただ、序章だけは、六九年の一月に書いたものだ。この年のはじめ、沖縄県人会事務局長として、沖縄返還運動の、本土における中心的な働き手であった古堅宗憲(ふるげんそうけん)氏が、その事務所のあった日本青年館の火災で死亡した。その死を悼んで書いた文章で、もしこの出来事がなかったとすれば、私が個人的な学習カードとして作っていたものから、この時機に岩波新書『沖縄ノート』としてまとめる運びにはならなかっただろう。 後にのべることになるが(それについて書いた箇所が、今回の裁判の直接の争点とされている)『世界』連載を続けている間に、渡嘉敷島の旧守備隊長が沖縄を訪ね、その来島に抗議する人々との間に衝突が起こった。私はそれをめぐり、とくに沖縄現地の二つの新聞の報道にもとづいて、『沖縄ノート』の終りの章を書いた。沖縄戦から二十五年たっての、日本人の沖縄についての考え方・感じ方を、根本的に再考しようとした。それが『沖縄ノート』をしめくくる主題ともなった。主題は連続して、いま現在の私のものでもある。私は三十七年前の本について(のみならず)、いま現在の思いを述べることもできる機会として受けとめて大阪地裁への陳述書を書いた。数年ごと、書庫の全面的な整理を繰り返してきた私には(それをやらなければ、書庫のある二階が、大きい地震を待たず崩れ落ちると、建築家の友人に警告されてのこと)『沖縄ノート』を書いた際の資料はなく、新しい書物は入手しやすいけれど、この裁判にあたって原告、被告側それぞれに法廷に提出する準備書面、それらにそえられる資料のコピーをもらったのが有効だった。 さらに自分で集めた新資料のひとつに、弁護士徳永信一氏が『正論』(二〇〇六年九月号)に発表されている論文(*2)がある。そしてそれは、後になって考えたことだが、この原告側弁護士による私への、根掘り葉掘り尋問に向けて、あらかじめ私に準備をうながすところもあったのだ。徳永氏は次のように書いていられた。 《……平成12年10月の司法制度改革審議会において曽野綾子氏は、大江氏が『沖縄ノート』で赤松元大尉を「罪の巨塊」などと《神の視点》に立って断罪したことを非難して、こう述べている。 「それは『沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物』という風評を固定し、憎悪を増幅し、『自分は平和主義者だが、世間にはこのような悪人がいる』という形で赤松元大尉を断罪し、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけた…それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました」(同審議会議事録)。》 曽野綾子氏の『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』に書かれている、この主題についての文章をそのまま(つまり引用のなかで後略とされる箇所は、この本の著者の記述どおり)写すと次のようである。 《大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺臓と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)」 このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨塊」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。 第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかったからである。 第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。》 もっとも、ここに引用した曽野氏の発言、文章はそれが行なわれてからすでに時日が経過しているから、修正がなされているのではないか、といわれるかも知れない。そこで二〇〇七年十月二十三日の産経新聞「正論」欄への、曽野氏の寄稿(*3)からあわせ引用しておく。 《1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。》 十一月九日の法廷で、私に先だって証言された原告、赤松秀一氏は、『沖縄ノート』のことを知ったのは曽野氏の著書をつうじてであり、『沖縄ノート』を入手はしたが、兄についての箇所を飛ばし読みしただけだ、と証言された。 もうひとりの原告、座間味島の旧守備隊長梅澤裕氏が怒りを覚えられたというのも、『沖縄ノート』を直接読んでというより『ある神話の背景』に導かれて、と見るのが妥当に思える。梅澤氏が『沖縄ノート』を読んだのが、この裁判が始まって以後のことだ、という証言もなされている。旧隊長自身によって。 原告側は、一九四五年の渡嘉敷島の守備隊長について『沖縄ノート』が「極悪人」としているむねいうのであるが、私は極悪人はもとより悪人という単語すら、この本に一度も書きつけてはいないのである。なぜかといえば、それが『沖縄ノート』を書いた私の主題とは関わることのない言葉であったから。『沖縄ノート』を書いていた私に、かれらを悪人とする認識は無縁のものであったからだ。 しかし赤松秀一氏の「陳述書」(*4)にはこう書かれている。 《……大江健三郎氏の「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感」、そこに描かれた神話的大悪人の話に疑問をいだかれた曽野綾子氏は、昭和45年9月に大阪で行われた慰霊祭参加報告会を皮切りに、多くの関係者に積極的かつ精力的に取材され、関連文献を調査され、ついに昭和48年5月、『ある神話の背景 沖縄渡嘉敷島集団自決』を出版されました。》 そして赤松秀一氏は、曽野氏の本が出たことで赤松旧隊長の名誉は守られたと考える。ところが氏にとって新しい状況が起こる。 《平成16年、兄と陸軍士官学校で同期だった山本明氏が私に会いに来ました。兄の話をされましたが、私は、『ある神話の背景』の出版で、全て済んだことだと言ったのですが、山本氏は、まだ生きている話だと言いました。私は、その後、弁護士と会って、学校の歴史の教科書にまで、軍が自決命令を出したことが書かれていることを知りました。教科書に書かれているということは、歴史にまでなっていることと同然です。私にとっては、これが一番ショックでした。さらに、『鉄の暴風』もまだ廃刊されずに出版を続けており、岩波書店では『沖縄ノート』も版を重ね、兄を極悪人であると決めつけた内容が修正もされずに書かれて売られていることを知りました。》 3 これらの資料を読んだことに立って、私の証言は、曽野綾子氏の『ある神話の背景沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の、『沖縄ノート』に関わる記述が(意識してか、あるいは無意識的にか、それこそ私の知りうることではないが)あきらかな誤読によってなされていることを、説明するものとなった。 私は『沖縄ノート』で、日本の軍、沖縄の第32軍、そして二つの島の守備隊が、そのタテの構造ぐるみ、七百人にも及ぶ島民に「集団自殺」の死を強制した「罪」を、(ここでとくに注意をうながしておくが、大阪地裁の法廷で「集団自決」という言葉が使用されているのにならって、私は自分の陳述書とそれにもとづく証言でもそのようにした。しかし、沖縄で長く議論されてきた、女子供をふくむ非戦闘員の島民たちの自殺を、自決と呼ぶことは不当だとする議論に私は説得される。そこでこの文章以後、私は集団自殺という言葉のみを用いる)「神の視点」に立ってではなく、人間の目で批判した。この戦争犯罪が、一個人の(かれが悪人だったゆえの)仕業だった、とは考えないからである。 私は、曽野綾子氏の立論がテクストの誤読によるものであることを証言したが、まず『沖縄ノート』から、問題部分に傍点して引用し、あらためてそれを詳しく説明したい。 《人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。》 かれとは渡嘉敷島の守備隊長である。罪の巨塊は、「巨きい数の死体」である。そのまえに立つかれが罪の巨塊だ、と読みとるのは、なにより文法的にムリじゃないだろうか? 私が『沖縄ノート』にこの文章を書いた時、私の頭のなかには沖縄タイムス社で資料を見せてもらった期間に接した(後に、米軍撮影によるとして新聞紙面に載ったものもふくまれていた)渡嘉敷島の小さな窪みに向けての斜面で、少女と、若い母親と幼児、そして老人の男の下半身の写った写真など、数かずの画像があった。そして私は、渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、と書きたくなかった。私はそれより他の言葉を探した。その私に浮かんだのは、他殺死体を指す言葉として覚えている corpus delicti という単語だった。大学受験に失敗した私は、浪人生活の一年をお茶の水の予備校で過したが、数学と理科の四科目が弱点であることは、毎週の模擬テストで骨身にしみてわかった。そこで私はそれらを集中して復習することにし、英語は高校生にも購入できる値段で神田の古書店にいくらでもあったペンギン・ブックスの緑色表紙、つまりミステリーを読むという、息ぬきも兼ねた方法をとった。そして私は、「死体なき殺人」というたぐいの小説でこの単語に出会い、しっかり辞書を引いて覚えていた。 corpus delicti には二種の英語訓みがついていたが、もともとのラテン語では、corpus が身体、有形物、delicti が罪の、ということで、実際に法律用語として使われていることも知った。私はそのまま、罪の塊という日本語にした。それもあれだけの巨きい数という意味で、『沖縄ノート』では罪の巨塊とした。巨きい巨塊なら、同義語反復といわれるかも知れないが、あまりにも巨きいとすれば、巨塊の巨という漢字の強調であることがはっきりすると判断したのでもあった。 4 このようにして、主尋問と反対尋問に答える私の証言は、まず『沖縄ノート』の、原告たちから提訴されている箇所が、この本のテクストの正しい読み方に立って問題化されたというよりは、その誤読にもとづいている、ということを証明するものになった。そしてもうひとつの、尋問での間題点についても、あらかじめ私には、先にそこから引用した原告側弁護士、徳永信一氏の論文で心構えをすることができていた。それはつまり、私が自分の文章についてまともな読解を示す、いわば国語の授業めいたものの下・・・・・・(つづく) 5 (略) 6 (略) 7 (略) 【注※】 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/694.html http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/713.html http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/684.html http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/634.html 続きは・・・・ 「小説すばる」2月号特別寄稿 「『人間をおとしめる』とはどういうことか──沖縄『集団自殺』裁判に証言して」 は、大江健三郎が裁判の核心に触れながら、その体験を綴っている。 http //subaru.shueisha.co.jp/html/read/re0802.html
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770 名前:通常の名無しさんの3倍 :2011/07/14(木) 19 41 50.82 ID ??? シャア「私がシスコン?何を馬鹿な。君のことではないのかね?」 ゼクス「人をシスコン呼ばわりとは非道い男だな、赤い彗星」 シャア「君はいつぞや自分の妹を自慢していたではないか」 ゼクス「断じて否!私はまだ自分をシスコンだと認めてはいない!」 シャア「ではリリーナ嬢よりも他の女性に目がいくのか?」 ゼクス「いやそれは……赤い彗星も地に堕ちたものだな!」 シャア「誤魔化すなライトニング・カウント!やはり君はシスコンだ!」 ゼクス「私わシスコンではないがリリーナは誇るべき妹だ!」 シャア「アルテイシアに敵うものなどいるものか!」 ドガッ! リリーナ「止めて下さいお兄様!」 セイラ「我が兄ながら恥ずかしい!軟弱者!」 ゼクス「がはっ……強くなったな……リリーナよ……」 シャア「ガンダムハンマーはないだろうアルテイシアよ……」 771 名前:通常の名無しさんの3倍 :2011/07/14(木) 20 18 50.24 ID ??? 770 ギニアス「フッ・・・妹に頭が上がらぬ、とは二人とも無様なものだな。私を見習うがいい」 772 名前:通常の名無しさんの3倍 :2011/07/14(木) 20 24 57.81 ID ??? クロノクル「やれやれ、これだからシスコンは…」
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73-37 371999~ほれ、みたことか!世紀末~2021/02/13(土) 19 27 13.02ID 3McxL3jU0 人生ゲーム的な双六ゲーム。しかしタイトルから察せられるだろうが、 有る意味当時の流行りである「人類は滅亡する」系の内容なのでゲーム進行と共にどんどん状況がヤバくなる。 結果発表 ピンキー星人という異星人の作った地球脱出ロケットに乗れる事になったプレイヤー達、喜んで早速ロケットに乗り込むが、 四位 外でロケットに点火する係に任命、当然そのまま地上に置き去り。 三位 ある程度上昇したところで乗った三段目が切り離され地上の何処かに落下。 二位 宇宙に出たところで乗った二段目が切り離され宛も無く漂流、地球脱出成功。 一位 無事ピンキー星に到着、住人達も大歓迎、これは幸せなその後が期待。 大量に転がってる白いモノ?はて、なんの事でしょう。ま、強く生きろ。 終わり
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1999~ほれ、みたことか!世紀末~ part73-37 371999~ほれ、みたことか!世紀末~2021/02/13(土) 19 27 13.02ID 3McxL3jU0 人生ゲーム的な双六ゲーム。しかしタイトルから察せられるだろうが、 有る意味当時の流行りである「人類は滅亡する」系の内容なのでゲーム進行と共にどんどん状況がヤバくなる。 結果発表 ピンキー星人という異星人の作った地球脱出ロケットに乗れる事になったプレイヤー達、喜んで早速ロケットに乗り込むが、 四位 外でロケットに点火する係に任命、当然そのまま地上に置き去り。 三位 ある程度上昇したところで乗った三段目が切り離され地上の何処かに落下。 二位 宇宙に出たところで乗った二段目が切り離され宛も無く漂流、地球脱出成功。 一位 無事ピンキー星に到着、住人達も大歓迎、これは幸せなその後が期待。 大量に転がってる白いモノ?はて、なんの事でしょう。ま、強く生きろ。 終わり 38ゲーム好き名無しさん2021/02/14(日) 07 12 46.29ID FtCkGAGJ0 1999懐かしい 全員参加できる親方レースが面白かった